聖書一日一章メッセージ集![]()
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堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」(ガラテヤ3:24) 昨日の2章までで自分自身の使徒としての立場や自分自身の教えの正当性については、語るべきことをひとまず語り終えたパウロは、今日のこの3章からは、信仰のみによって救われる、救いは神様の一方的な恵みであるという自分がこれまで宣べ伝えて来た所を論証しようとしています。 まず、1節から5節では、自分たち自身が経験して来たことを思い出せば、救いは信仰のみによるのだということがわかるはずではないか、ということをパウロは語っています。4節の「あれほどの経験」というのは、おそらくは、ガラテヤのクリスチャンたちなら誰もが知っている、霊的に特別に祝福された何らかの経験を指していると思われます。 6節から9節では、アブラハムが引き合いに出されて、信仰による救いは、実は旧約聖書が教えているところである、ということが言われています。だとするならば、やはり旧約聖書で教えられている律法をどう位置づけるのか、ということが次に問題になって来るわけですが、その点についてパウロは大きく分ければ2つのことを言っています。 1つは、15節から18節までで言われているように、律法の方がアブラハムへの信仰のみによる救いの約束よりも後に付け加えられたものであり、元の約束を無効にするようなものではない、ということです。 2つ目のことは、律法は、19節から25節、特に24節ではっきり言われているように、人々に自分が、神のおきてを守ることができず、神の裁きを受けるしかない、呪われたものであることを悟らせるためのもの、さらには、13節などで示唆されているように、キリストが身代わりとなって呪われた者となって下さる以外には救われようのない者であるということを悟らせるためのものだということです。逆に言えば、人はそれほど自分がどれほど呪われた立場にいるかということに気が付きにくい者であるということです。私たちはどうでしょうか。自分がどれほど呪われた状態の中にいるか、そのままではどれほどむなしい人生を歩み、どれほど悲惨な結末が待っているかを忘れてはいないでしょうか。そして、イエス・キリストを信じる信仰を、救いを、なくてもやっていけないわけではないけれども、あった方がよいもの、というぐらいにしか思っていないということはないでしょうか。 中谷建晴 |