聖書一日一章メッセージ集![]()
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| 堺大浜キリスト教会聖書一日一章 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(2コリント4:7) 昨日のコリント人への手紙第二3章の7節から18節では、福音を宣べ伝える働きが如何に栄光に満ちたものであるかが語られていましたが、今日の4章では、ではその栄光に満ちた使命を託された者自身はどうであるのか、どうであるべきなのか、ということが語られています。 7節では、使命は栄光に満ちたものであるけれども、その使命を託された人間はあくまで弱くもろい存在にしか過ぎないということが言われています。しかし、そのことを示す「土の器」という表現は、だから罪を抱えたまま、不真実なままでいいというようなことを示唆しているわけではないようです。むしろ「土の器」という表現は、8節から9節、11節などで言われているように、福音を伝えよう、福音に忠実であろうとするとその結果として迫害を受け、痛みを感じ、自分が肉体を持ったもろいものでしかないということを痛感させられるけれども、というようなことを示唆しているようです。 私たちはどうでしょうか。そこまで福音宣教に忠実に励もうとしているでしょうか。それどころか、むしろ、こういうパウロの「土の器」というような言葉を自分の罪を見過ごす口実、悔い改めることをしない口実としているようなことはないでしょうか。2節はそういう考えが間違いであることをはっきり示しているのではないでしょうか。 13節では、福音宣教の働きは、何か特別なものではなくて、信じる者にとってはごく当たり前のことだということが言われています。ですからもし私たちの中に、イエス様のことを誰かに話さないといられないというものや、イエス様のことを伝えて行く働きを何かの形でお手伝いしたいというような思いがないとしたら、何かが間違っているのかも知れません。 14節以降では、やがての天における栄光を思うと、この地上の生活の中で受ける苦しみは大したことではない、ということが言われています。私たちもイエス様にお会いした時にどうなのかということを思いながら、日々、歩む者とならせていただきましょう。 中谷建晴 |