聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(1コリント11:32)

 今日の第一コリント11章では、礼拝の持ち方、聖餐式の持ち方について語られています。
 2節から16節では、礼拝の中で、女性がお祈りや預言をする時にはかぶり物を頭につけておくようにということが言われています。おそらくは、当時の地中海世界では、女性は人前ではかぶり物をつけておくもので、かぶり物をつけていないと売春婦か何かと見做されるということがあったのではないかと言われています。にもかかわらず、キリストにあって、自由にされたのだからと、わざわざかぶり物をかぶらない、売春婦か何か誤解されるような恰好をする女性たちがいたようです。そういう女性たち、また、彼女たちを支持する男性たちに向かってパウロはここで、キリストにある自由ということは社会的常識や慣習をわざわざ破ってみせるということを意味しているわけではない、ということをここで語っているようです。或いはまた14章34節・35節などからすると、女性たちの中にキリストにある自由ということを口実に鼻もちならない態度を取る者たちがいた、そのことに対する叱責という意味もあるのかも知れません。
 17節以降は聖餐式の持ち方が全くなっていないことに対する叱責です。
 キリストにある自由を理由に、かぶり物をかぶらないと頑張っていた人たちが、その一方では、聖餐式を等閑にし、分裂分派を起こしていたわけです。本質的なことでないことで頑張る人に限って、本質的なことを、自分自身の罪と向き合うことやキリストにある一致を求めて行くということを等閑にするということではないかと思われますが、私たちはどうでしょうか。もう一度、自らの在り方を顧みさせていただきましょう。

 中谷建晴



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