聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」(1コリント6:7)

 今日の第一コリント6章の前半からは、コリントの教会の中では、教会員が他の教会員を裁判に訴えるというようなことがあったことがわかります。
 2節から3節で、パウロは、この世界が終わった後の、新しい世界、新天新地においては、イエス様を信じる者たちが世界を裁く、天使でさえをも裁くようになるということを指摘しています。そして、そのような者であるのに、自分たちの間のトラブルさえも正しく裁くことができないとは、どういうことなのか、とコリントのクリスチャンたちを責めています。しかし、このパウロの叱責は期待の裏返しであると言えるのではないかと思われます。私たちは、あなたには、やがて、こういう大事な役割を託そうと思っていたのに、なぜ、そんなことからさえ逃げようとするのか、とイエス様を嘆かせるようなことをしないように心しようではありませんか。
 5節は、自分たちの知恵を誇っているコリントのクリスチャンたちに対する皮肉のようです。コリントのクリスチャンたちの知恵は、信仰について、或いは、パウロやアポロなど、牧師や宣教師、伝道者についてあれこれ論じることはできても、具体的な問題を前にしては全く無力なものでしかなかったのです。しかし、私たちも、信仰について知識的なものは沢山持っているけれども、具体的な生活の中で、或いは、咄嗟の時に、働く本物の知恵、キリストにある知恵は持っていないままになってはいないでしょうか。
 7節から8節は、そのような知恵の中身です。本当の意味での知恵とは、マタイ5章39節から44節などに記されているように、右の頬を打つ者には、左の頬を向けよ、とおっしゃり、その通りのことをされたイエス様を内に宿すこと、そのイエス様の後を辿ることを何よりの喜びとすることなのです。自分自身はどうか、自らの在り方を顧みさせていただきましょう。

中谷建晴



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