聖書一日一章メッセージ集


堺大浜キリスト教会聖書一日一章

「聖霊に満たされていたステパノ」 (使徒7:55)

今日の使徒7章では、ステパノがサンヘドリンと呼ばれる、ユダヤの最高議会の前でした説教と、その結果、ステパノが神様を冒涜した者として石打ちの刑に処せられ、死んだことが記録されています。
当時のユダヤ人たちは特に神聖なものとして、約束の地であるパレスチナの土地、神様がモーセを通して与えて下さった律法、神様を礼拝すべき唯一の場所であるエルサレム神殿、の3つを崇めていました。しかし、ステパノの説教はイスラエル民族、ユダヤ人、の歴史を振り返りながら、そういう彼らの考えを完全に否定するものでした。
2節から5節、特に5節で、ステパノは、約束の地であるからといって土地そのものを崇めるような態度がおかしいということを、イスラエル民族の先祖であるアブラハムの生き方を通して明らかにしています。
20節から43節ではモーセの生涯について述べられています。この当時、モーセは、神様から律法を授かった理想的な人物として崇められていました。しかし、ここでステパノはモーセが必ずしも理想的とは言えない人物であることを示し、さらに37節ではモーセと同じような預言者が後の時代にやって来る、モーセの律法は最終的なものとして崇められるようなものではない、ということを示してみせました。さらには、イスラエル民族がモーセの下で反抗的であったことを示し、イスラエル民族が神様に選ばれた民として誇ることのできるようなものではない、ということをも明らかにしています。
また、44節から50節では、エルサレム神殿が当時の人々が思っていたような絶対的なものではない、ということをも明らかにしています。
ステパノの語った内容はユダヤ人たちにとっては大変厳しいものでした。しかし、55節で彼は「聖霊に満たされていた」と言われています。しかし、私たちはステパノとは違って、やさしさという言葉を隠れみのにして、罪を曖昧にしたり、はっきりと語るべきことを語っていない、ということはないでしょうか。あるいはまた、そういう罪をあやふやにするといったような間違った意味でのやさしさを神様に対して、人に対して期待していることはないでしょうか。

中谷建晴



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