ガラテヤ書 4章
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
(ガラテヤ 4:19)
「相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、後見人や管理人の下にあります。」という書き出しは前の章からの続きで、“主は、イエスさまを信じる者を、神の子として自由に生きるようにしてくださるが、その前備えとして、信じる前、いわば子どもの間、律法の下に置き、律法を守って生きようとする過程を通らせられる、人は、その歩みの中で、律法を守れないことを悟り、イエスさまにある救いを示され、信じて、それを受け、本当のいのちに生きる者とされる”とパウロは語ります。律法は私たちを「キリストに導く養育係り」であり、信仰は私たちを育て、私たちを聖霊によって「アバ父」と神を呼ぶ者、神の子、神による相続人とします。イエスさまを信じるとき、信じる者のうちに新しいいのちが注がれ、爆発的な喜びがあふれ出て、自由に生き、しかもそれが主をお喜ばせする歩みが生み出されます。ガラテヤのクリスチャンたちもそうでした。彼らはその福音を伝えてくれたパウロを愛し慕いました。今も、信仰の指導者と信者との間にはこのような愛の交わりが生まれます。しかし、偽教師たちの、律法を守ることによって救いが全うされるという教えがガラテヤ教会の人々の心をキリストから、そしてパウロからそらせました。それは、人を律法によって罪の奴隷とする教えです。サタンの操る偽りの教えの恐ろしさを思います。「主に目を注ぎます。目をそらさせないでください。」と祈りました。
唄野 隆 |