ガラテヤ書 3章 「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」 (ガラテヤ 3:9) 人は、善い事をして神に認めてもらおうとします。まじめな良いことのようですが、そこには、自分が善い行いをし、神にそれを認めさせようとする自己主張が隠れています。しかし、善いことが出来なければ責められますから、この生き方にはいつも不安と恐れが伴います。神の絶対的なきよさ正しさを知らない間は、自分には神に認めてもらえる善いことができると思えますが、神がどれほどきよい御方であるかを知り神の律法がどれほど正しいかがわかってくると、神の律法を守って神に認めてもらおうとする生き方がどれほど恐ろしく絶望的なものかがわかってきます。パウロはパリサイ人として厳格に神の律法を守ろうと努力した末、絶望し、神の恵みにより、イエス・キリストの贖いが備えられ、イエスさまを信じる者は救われると示されたとき、歓喜して、信じ、救われたのです。律法は信仰への養育係だったのです。いのちは信じるところにあります。この経験に基づいて、パウロは、信仰によって義とされると語ったのです。私も、パウロと共に、イエスさまを信じて救われる恵みを感謝し、それが福音であることを証します。それはアブラハムに与えられた神の約束に基づいています。主は神のお約束を信じたアブラハムを祝福されました。約束は変わることがありません。ですから、アブラハムの死後、モーセに与えられた律法によって、信じて救われるという約束が反故にされることは断じてありません。信じる者は祝福を受けるのです。感謝です。
唄野 隆 |