1コリント 8章 「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」 (1コリント 8:3) パウロが、コリント人への手紙を書くことになった背景には、コリントの教会から、いくつかの問題についてパウロの指導を仰ぐ質問が寄せられたことがあったようです。その質問の一つが、偶像にささげられた肉にたいしてどんな態度をとったらよいか、ということでした。コリントの教会には、クリスチャンは神だけを尊ぶべきであって、偶像にささげたもので身を汚すことなど決してあってはならない、と主張する人もいたようですし、偶像などというものは実在しないのだから、そんなことは問題にしないでよい、と言う人もいたようです。しかし、“偶像はいないという自分の知識に従って行動し、それが偶像礼拝から身を守ろうとしている人をつまずかせるなら、そんな知識は間違っている、神を知った者は兄弟を生かすことを求めるはずだ”とパウロは言うのです。私たちは知ることを求めます。しかし、知ることからどういう行動がでてくるかが問題です。中途半端な知識が増えると高慢になり、知識のない人をさげすみ、交わりを損ないます。深く知る人は、自分はまだ本当に知るべきところまでは知っていないことを知って謙虚になります。本当に知ると、あるいは知られていると、愛が生まれます。私たちが知ることを求めるのは主を知ることですが、本当に主を知ろうと求めていくとき、私が主を知るのではなく、主が私を知ってくださっていることを悟り、主を愛するようになります。私がどれほど深く主を知っているかは、私はどれほど主を愛しているかによってわかるのです。本当に主を愛しているか、と問われます。
唄野 隆 |