ルカ 14章
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
(ルカ 14:27)
ある安息日に、あるパリサイ人がイエスさまを食事に招きました。イエスさまの真正面に水腫をわずらっている人が置かれていました。イエスさまは、安息日に病人を癒すのは正しいことか、よくないことか、と問われました。彼らはイエスさまが安息日に癒しをすれば非難する魂胆だったのにイエスさまに先手を打たれた、という状況でしょうか。彼等は黙っていました。イエスさまは、触れれば汚れるとされていた病の人を抱いてやって、癒されました。そして、パリサイ人たちでも、息子や家畜が井戸に落ちたというような緊急事態には、すぐ助けるではないか、と言われました。戒めは人を守り生かすためのもので、戒めを形式的に守ることよりも人の命が大切だ、と言われたのです。私たちも、良い取り決めも、その取り決めの本当の目的を見忘れて、表面的な形にとらわれないようにしたいものだ、と思いました。人を招くのはその人との交わりを育て深めるため。それなのに、私たちのお招きはお返しを求めてのお招きになってはいないか、と問われます。また、宴会に招かれたら、その人の好意に応えて、喜びを共にすることを考えるべきなのに、自分の都合を優先して、相手の名誉を無視するのも間違いです。自分のことよりも相手のことを優先する人が、その人との交わりを育てることができるのです。イエスさまとの親しい交わりを求める人は、自分の名誉や欲を十字架につけイエスさまのことをまず考える姿勢が求められているのだ、と示されます。
唄野 隆 |