今日の聖書一日一章からのメッセージです



堺大浜キリスト教会聖書一日一章

                      ヨブ記 20章

「それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため私は心あせる。私の侮辱となる訓戒を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。」
                   (ヨブ記 20:2,3)

ヨブの3人の友人たちは、ヨブを愛し、何とかしてヨブを苦しみから助けたいと思って彼のところにきました。友情からでした。しかし、彼等の判断基準はずっと聞いてきた教え、神は善を行う者に幸いを与え、悪をなす者を苦しめるという先祖伝来の教えでした。ヨブのこれほどの苦しみはヨブに罪があるからだと判断し、それなら悔い改めて神に赦しを乞うしか道はないと考え、ヨブに悔い改めを勧めました。それは身に覚えのないヨブには受け入れられないことばでした。彼は激しく反論しました。彼等にはそのことばは彼等を侮辱することばだと聞こえました。ツオファルは「それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため私は心あせる。私の侮辱となる訓戒を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。」と切り出しました。愛ではなく、いだだちと焦りから、神の教えでなく自分自身の悟りによって教え諭そうとする議論でした。このような議論は苦しんでいる人にとって何の助けにもなりません。ツオファルが“悪人はひと時は栄えてもすぐに滅びる、努力して栄えを取り戻しても、それを楽しむことはできない”と激しく語れば語るほど、そのことじたいは間違いではなくても、ヨブの苦しみと反発は激しくなるばかりでした。ツオファルのことばに、お前も、苦しんでいる人の苦しみを聞くとき、そのことばの激しさに辟易し、忍耐と愛を失い、自分の知識や、聞きかじりの教えに従って、教え諭そうとしているのではないか、という問いかけを聞きました。

       唄野隆



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