聖書一日一章メッセージ集



堺大浜キリスト教会聖書一日一章

                       ヨブ記 5章

「私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。」
                      (ヨブ記 5:8)

 エリファズは続けて語ります。「聖者のうちのだれにあなたは向かって行こうとするのか。」ヨブの苦しみの訴えを聞いたエリファズは、ヨブが苦しみを神に向けて訴えていない、と判断し、聖者に訴えても確かな答えは得られない、「私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。」と語りました。ヨブの激しい訴えにたいして、“憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかなものを死なせる、愚か者の家は腐り、子どもは押しつぶされ、富も奪われる”と諭しますが、家財産を奪われ、子どもを失ったヨブの傷口に塩を塗りこむようなひどいことばだということには気づいていないようです。エリファズは、冷たい勧善懲悪の神学に捕えられ、ヨブの痛みを受け止める暖かい感受性を失っていたのでしょうか。彼は、続けて、“神は低い者を引き上げ、悲しむ者を引き上げて救われる、神は人が間違いを犯すと、懲らしめられるが、それはかえってその人の益となる、神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが癒してくださる”と語ります。そのとき、彼は、「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は、だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。」と言いました。これは、それだけを取り上げれば、実に深い洞察を含んだことばです。しかし、主がヨブを信頼し、サタンがそれに挑戦したことで、主の許しの中で、ヨブが苦しんでいることにたいしては、全くの的外れのことばでした。人間の判断と親切心と、そこから出る助言の空しさを痛感します。「主よ。主の目、主の愛、主のお導きを与えてください。」と祈りました。

                          唄野隆



Copyrihgt© 2004-2014 Sakai Ohama Christ Church All rights reserved.