今日の聖書一日一章からのメッセージです



2021年9月4日(土曜日)

堺大浜キリスト教会聖書一日一章

                     イザヤ書 20章

「わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間、裸になり、裸足で歩いたように、・・・。」
          (イザヤ書 20:3)

 この預言は、「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたサルタンがアシュドデに来て、アシュドデと戦って、これを攻め取った年」の預言です。当時、エチオピア人ピ・アンキがエジプトを征服して建てた第二十五王朝を頼ってアッシリヤに対抗しようとする勢力がユダ王朝の中で有力だったようですが、アッシリヤはユダの西、海岸地域のペリシテ人の町アシュドデまで軍を進めてきていました。アッシリヤの勃興にたいしては、主は、早くから、イザヤによって、人の力に頼らず、主を信頼して、主の導きを待て、とユダに語りかけてこられました(イザヤ7:4)。しかしユダ王朝の中には、目に見えない主ではなく、目に見える力、クシュとエジプトを頼って国を守ろうとする人たちが強い影響力を持っていたようです。彼らはイザヤの語ることに耳を傾けませんでした。そのとき、主は、イザヤに、裸になり裸足になって町を歩け、と命じられました。王族出身のイザヤがそんな格好で町を歩けば人目を引きます。驚いてイザヤを見る人々に、エジプトとクシュの捕虜たちがそのように裸にされてアッシリヤへ引いていかれる日が来る、彼らは頼りにならない、主に頼れ、とイザヤは熱をこめて説きました。裸を見せる恥ずかしさを忍び自らを視聴覚教材としたことに、何とかしてユダを救いたいというイザヤの熱意がうかがえます。その奥から、何としても彼らを救いたいとの主の愛が迫ってくるのを覚えます。同じ主の愛が今、私たちに向けられているのです。感謝して主に聞こう、と思います。
                          唄野隆



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